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今まで書いて来たことは白浜のことで、浜の由来・産業・風土等および下田のことであった。
一段落したことでブログが随分途絶えてしまいました。 これからは身近なことをバンバン書き出します。宜しく。 入り口から建物を見ると板一枚ずつ平らな屋根が左に行く程低くなっており、逆に庭側から見ると右へゆく程部屋が半間ずつ引込んでゆく。 つまり上から見ても横から見ても階段状になっている。 ![]() 土地を取得して設計段階に入った時、その頃通っていた喫茶店があった。私がペンション業を始めると知った常連の若者たちが名前を一緒に考え出してくれた。 下田市は「伊豆の太陽、下田市」と、今でも名乗っているが、私も心密かに「太陽」をこだわっていた。私にとって太陽は「希望」である。 それを皆にも話しておいた。 設計図面が出来上がり、そこに立体図面も描かれてあった。それを見た若者の一人が「高村さん、サニーステップはどうだろうか」と云ったのである。私は「アッ」と思い、即刻その名に決めた。 サニーステップとは希望に向かい一段ずつ階段を昇ってゆく意味を表しています。 (このときの若者には今でも会うと謝意を告げます。一方、下田市には移住して26年経つが、失望のし続けである。市民に対してなんら希望、夢を与えていないから。) 2009.12.30(平成21年) ファミリーレストラン「すかいらーく」が全面撤退ということで、全国からなくなることを知って驚いている。「ガスト」「じょなさん」に転換するか廃店にしてしまうらしい。最盛時には750店あったそうだが、現在は150店。一方ガストは1200店。
その原因は客単価にあり、「すかいらーく」が950円、「ガスト」は750円。 今後予想される不景気の深刻化に伴い、前者の落込が予想されるからだそうだ。 「すかいらーく」150の内の一店が下田市にあり、市街地のはずれ下田湾を一望する絶好の場所にある。私の所から車で7~8分、一方「ガスト」もあり、それは反対側の河津にあり、所要時間は倍になる。 私たち一家も「すかいらーく」には行かず、遠くても「ガスト」に行く。 まさしく200円の節約が目的なのだが、4人分で計800円になり、その分女房は生ビールを一杯、私達3人は100円ドリンクを3人分頼んでいる。それに何よりも「ガスト」は商売熱心で、何時も新商品を開発しているのが魅力的だ。(それにもうハンバーグは飽きてしまったし) ![]() 下田白浜 サニーステップ 高村 11月10日から30日迄、旧天城トンネルを中心として「天城路もみじまつり」が、伊豆市と河津町のそれぞれの観光協会の提携で行われます。
興味のある方どうぞいらして下さい。 伊豆半島のもみじは長野、山梨、栃木県に比べると約1ヶ月遅れです。 しかも彼の県程素晴らしい景色ではありません。紅葉には寒暖激しいことが良いのですが、半島は全体的に温暖であるからです。 しかし「伊豆の踊り子」が歩いたとされる「旧天城トンネル」があります。 このトンネルは明治38年に竣工された珍しいもので、現在の国の重要文化財に指定されています。どうぞご覧下さい。 ![]() この期間中、車の通行は伊豆市側から南進のみの一方通行となります。 時間にゆとりのある方は歩いたらいかがでしょうか。観光協会がトンネル入り口で提灯を貸し出しています。私共にお宿りなさる方で、踊り子歩道を踏破(所要約1時間)なさりたい方は、出口まで御自分の車で行かれ、入り口へは私が車でお送りします。 詳細はお聞き下さい。 ![]() 少しお腹がすきましたら、地元の老夫婦が経営する「大時茶店」にお寄り下さい。名物はとろろそばです。食べながら地元の話でも聞くと良いでしょう。なかなか物知りです。 下田白浜 サニーステップ 高村 突如降って沸いたように起こった伊豆半島・下田・白浜のブームは36年12月に伊豆急が開通したからだった。
翌年の37年からはそれこそ伊豆へ伊豆へであった。 その頃、車が普及しだしていて車と両方で来島した。 夏の白浜へは70万を越す人達が殺到した(20年の今年は35万)。 約45年前の頃だが、その頃に少、青年時代を過ごした当地の今の5~60代の中年からその凄まじさをよく聞かされる。 「兎に角寝かせてくれ。 縁側でも良いから頼みます」。 「民宿」という言葉通り一般民家が押し掛けられ、当座の金儲けの為、1人 7~800円で泊めたそうな。 来島する若者グループはテント持参である。 白浜大浜は立錐の余地もない程で花火は上がるは、焚火はするはで大騒ぎ。 焚火の木は時に民家の雨戸も燃やしたと聞く。 なかには酔払った女が裸で歩く始末。(私も47年だったか女房と夜の白浜を通過したことがあるが、突然女房が「あなたアレ見て 女の娘が裸よ」と指を指したことがあったが残念ながら見過ごした)。 子供だった地元の連中は寝るところがなく、友達を頼って民宿をしていない家へ、転々と泊まり歩いていたそうだし、又、両親も台所の脇に3~4畳の出屋を作り、そこで寝たようだ。 それが続くと庭に離れを作ってそこで家族が寝泊りした。 この狂騒と浜の汚染を危惧した当時の下田町は国有地を管理する県にキャンプ禁止の措置を願い出た。 これを受けた県は白浜のみならず伊豆半島全域に6月から9月いっぱいをキャンプ禁止地域にしたのだった。それが昭和44年。 以後、徐々にキャンパーが減り、48~9年頃から完全に姿を消した。 ![]() 本題に戻って民宿さんのことだが、上記の若者をも含めて更に客数が増え始めた。 昭和44年頃を境にしてである。 一般民家の民宿さんが現在の二階建てにしたのは、この頃からであろう。 山を売り畑を売って資金元とした。(だから白浜各部落の奥には別荘地が沢山ある)。 しかし今ではその民宿さんも衰退の一途を辿り、目を覆うばかりである。 廃業した民宿さんから「俺の部落でも昔は100軒位あったろうが今では10軒あるかないか」と聞いている。 その原因はいろいろあるだろう。 老齢、熱意、施設設備等あるだろうが、白浜の持つ多様な良さを生かし切っていないことも一因と私には思える。 そしてそれを住民達が結束してアピールしていないと思うのである。 多様な良さとは砂浜だけではない磯場、海上、海中に及ぶ種々の楽しみ方がある。 市内には海に沿って7つの海中浴場があり、場所によって多少の違いはあるだろうが原則的に潜りは認めていない。 当然アクアラングを使うダイビングに対してはどこも未だ開放していない。 国道135号沿いにでは、下田市だけが認めていない。 何故かというと 「俺っちの海」 という意識が強いからである。 本来、海は国民のものであるからダイビングであれ素潜りであれ開放されてしかるべきである。 しかし一方では、地元がサザエとアワビの稚貝を磯に放流している。 成長した貝では地元民は生活の足しにしている。 要は潜っても良いけど貝は採ってはいけない。しかし眼の前にあれば採りたくなるのも人情。 私は考えるのだけどダイビングのように地域を限定し、或る一定以上の大きさの貝を、数量を決めて取ることを認め、それを浜値(原価に近い値段)で買い取っていただくのだ。 次に砂浜の有効利用についての私のアイデアだが、ハワイアンダンスサークルの発表会場として提供し、デッキの上で踊っていただくこと。 幸い大浜には5~60畳になる組立式のデッキがあるし、長田浜にはもともとデッキがある。 酔った人、興味のある人の飛込も認める。 おだやかな音量であれば左程近隣の迷惑にはならないだろう。 当初のうちは下田近在のサークルに声をかけ、次第に伊豆半島に広げ、それを聞きつけ都会からも来るかもしれない。(宿泊絡みも考えられる)。 これ等は単なる私個人のアイデアのひとつに過ぎないが、地元民がそれぞれアイデアを持ち寄って白浜低迷打開に向けて、一致団結しなければならない時が来たと思う。 観光ブームに乗って泡が湧き上がったが、今や溶解しかけている。 地元の人達はどのように立ち上げるのだろうか。 立ち上がってからも試行錯誤が続くだろう。 それを乗り越えて次世代に譲ってゆかなければならない。 一番必要なことは、「宝のような白浜」 を結束して守り育てること。 最後になるが、須崎半島に在る民宿さん(他処者経営)から聞いた話。 福岡博多の浴衣セールスマンの体験話だが、西伊豆の或る処では、次から次へと紹介されたそう。 「オイ俺のところは青地の浴衣買ったからオメエのところは緑にしたらどおョ」と。 しかし下田地域に入ると殆んど紹介はないそうな。 地域を上げて誘客を計るという意識がないとのこと。 自分のところさえ良ければということで、その前提には客は自然に来るという発想だと分析しているそうだ。 下田白浜 サニーステップ 平成20年10月
地元の白浜の中年と話していたら、彼が云った。
「(濡れ手に)栗で生きてきて、泡(バブル)で行きついた」と。 正しく至言で私もそう思っている。 つまり今まで、頭を使うことなく、努力することもなく生きてこれたのだが、それも終わったということである。 ![]() 今回は、白浜人がどうやって生きてきたかというこについて触れたい。 「濡れ手の栗」 とは海産物、中でも天草であり、「泡」とは観光ブームである。 先ずは、海産物だが、てんぐさ(天草)と、ところてん(心太)の漢字は共に自然への恩恵と生活の恵みを表しているのだろう。 天草を水分が無くなるまでカラカニに干したあと(約一週間)、水を加えて天草が熔けるまで煮込む。 天草の重量と水の量は可成り厳密な割合が要求されるが、冷えてくると固まる。 この製法は平安時代 遣唐使によって中国から伝わった。 カロリーはさ程変わってない。 が、腹の足しにはなる。この心太を白浜人は1000年も前から食べていた。それに天草は畑の肥料にもなっていた。 旧明治38年天城トンネルが開通し伊豆南が陸の孤島状態から脱却すると一挙に長野県茅野地方に天草が輸出されるようになっていった。 そして白浜の濡れ手に栗が始まったのだった。寒天の材料だからである。 寒天は、マイナス10℃位の寒い地方で、心太を干して作る。寒空に干して水分を抜いてゆくのだそうだ。 寒天はそもそも京都の寒い地方の住人が心太をたまたま仕舞い忘れて雪の上に置きっ放しにしたのが元で作り方が考え出された。 それは江戸中期の頃だそうで、長野の商人がそれを見て寒い長野にも取り入れてはどうかとアイデアを持ち帰ったのが江戸の下期。 当初の長野の寒天作りは細々としたものだっただろうが、明治の後半から一挙に産業化した。 (伊那食品工業(株).別名「かんてんパパさん」のパンフレットによる。0120-321-621) 天草採りは大きく三に分かれ、海女さんが命綱をつけて潜り採る。 次に「まんが」と呼ばれる1M~1.5Mの大きさの鉄製の熊手様のものを舟を使って引きむしる。 そして、浜に打ちあげられたものを拾う の三種があった。 集められた天草は等級に分けられ、それを白浜村が買い上げ、仲介人に売り渡す。 「口開け」と称する日が年に何回か設けられ、その日に一斉に海女達が潜った。 そして年一回、利益の配当が村から彼等に配当金として還元された。その額は1戸当り約1000円だったそうである。 当時、学校の先生の給料が年額約500円。まさに栗だった。 天草採りに加わらない家族(老令等)でも配当金があったようで、まさしく互助社会である。 昭和30年頃だろうか、大学教授が調査に来て、白浜の「原始共産社会」と称したそうである。 今の古老達はそのことを内心誉りにしている。 しかし、30年頃からから徐々に収穫量が減ってきたのではないか。 その原因は採り過ぎか、潮の変化なのだろうか、海女さん達の高齢化もあっただろう。 現に今では2・30代の女性が潜ることは皆無である。 そして次に起こったのが夏みかん栽培であった。農産主導で山持ち住人達がみかんの苗木を植え出した。 中には、みかん農家として山を買い小田原、駿府地方から移り住んで来た人達もいる。 山合いの細い道を車が入れるような広い道にるす為、無償で供出され、農家として整備されていった。 実は国道から入ってくる私の処の傍の道路(幅員 約5M)も25年前に移り住んだ頃は、古根(こね)農道と称されていたが、15年位前から古根道となった。 農道から市道への昇格である。 農道の頃の、維持管理は供出者の責任であったが、市道になって、その管理は市の責任となったのである。 しかし農道として甘夏みかんの搬出に使われることは殆んどなかったのではないか。 みかんの苗木が成長して収穫の始まる頃には、白浜の産業は民宿業へと転換し出していた。昭和37~8年の頃である。 観光ブームの到来で「泡」(バブル)が始まった。 柑橘類はというと、その後も新種が次々と生まれ(ニューサマー・ポンカン・デコポン等)完全に白浜は遅れてしまっている。 今更、世に追い付くことも出来ず、専業農家の2~3軒が細々とやっているだけである。 手をかけることがないからスカスカしていて、それが地面に沢山ころがっている。 (私はみかん好きなのでよく買っていたが、今では専ら 愛媛県西予市明浜の「無茶々園」さんから取り寄せている。30余年の有機栽培の結果の今日、全国に出荷しているようだ。地域挙げて取り組んでいる様子が送られてくるパンフレットの中に綴られている。興味のある方はインターネットでどうぞ)。 下田白浜 サニーステップ 高村 平成20年9月15日 東京から移り住んで25年経つが、こんな良い所に住めるなどとは私の人生で夢にも思わなかった。
海あり、山あり、そして温暖だからである。 宿泊業を開業しようと思い立ち、先ずは日本全国を頭に描いたが、釣りに来ていた伊豆に決めた。伊豆の土地をあちこち見て来たが、たまたま現在地が売りに出されたことを不動産屋から連絡が入り、現地を見て即刻決めたのだった。 こんなに良い所はないと今ではつくづく感謝している。 縄文・弥生の頃からこの地に人間は住んでいたらしいが、その古式の人達はどう思っていたのだろうか。青森に山内丸山遺跡があるが、5ヶ月間雪の中に住む、未だ電気ガスもない時代の人間と比べると、どれ程白浜は住み易い地だったのだろうか。 ![]() 白浜の古代遺跡は三穂ヶ崎にある。海に突き出た崎だが、海への祈願地だったのだろう。 近所を散歩する老婆に声をかける。 「海を見ながら散歩できるなんてここは良いとこだネ」 「そうかネ」 の返事。 私、「きょとん」。 7~80の老人たちにとってこの景色は当たり前なのだ。他処、特に都会に住んだことがないのである。 7~80代の老人たちに結婚の由来を聞くと、見合いあり、恋愛ありではあるが、殆ど現地人同士である。60代になってからようやく都会人と結婚し始めた。それも多くは現地の男性と都会の女性である。今から40年前位なのだが、その頃半島に観光ブームが起こり、来島した女性がなんとなくここに居付き、その彼女たちを口説いたのであろう。 それにしてもここは今でも「屋号」が罷り通っている。同姓が多いからである。「~の井戸端」はお金持ちで井戸を持っていた。井戸のない近所の人達が水を貰いに行ったそうである。「~の鞠屋」もお金持ちの部類。鞠蔵を持っていて近所の人達がそこに集まり、味噌・醤油を造っていた。屋号の多くは何代か前のじいさんの名前を使っている。子孫が増え近所に住むと「上の~」「浜の~」「下の~」となる。また長男はそのまま先祖の名前を使っているが、次男、三男は「~の隠居」とした。分家という意味である。中には商売、仕事をとって「とうふや」「かじ屋」などともなっている。 私たちよそ者が本当に地元の中に溶け込むには3代かかると思っている。その時の私達の屋号はたぶん「サニーステップ」なのだろうが、開業当初は「あ、英語のペンションさんネ」だった。 白浜には3区あるが、その下に約14~5世帯をまとめた組がある。組長は持廻りで順番に当たるが、その役目の主なものは市役所広報のスタート拠点であり、年2回の道造り(雑草狩り)と2回の浜清掃に率先して出ることである。そこへ行くと区長は10組全部を取りまとめ、更には夏期の浜の管理が加わる。 従って区長の役割はきつく、それなりの時間的余裕と人望が必要である。そこそこの手当は出るらしいが、しかし一方で前例と少し違うことをすると陰口も叩かれる。だから余り成り手がないらしい。 持ち廻り組長となった新参者の私が皆さん組長のうしろについて区長職のお願いについて廻ったことがあった。組長の内では本命の区長さんは大体決まっているようなのだが、廻る順番があるようで、2~3回伺い最後に「分かりました。お引受けしましょう。自分は(下田の)大賀茂から養子に来たが、これから先、子孫が皆さんのお世話になりますから」ですと。 この方とは時たま出会うとニコニコしながら声をかけ合っている。 下田白浜 サニーステップ 親父 平成20年8月20日。 前回は長田浜(中央海水浴場)の由来に触れたが、その昔は原田区の白浜(大浜)は夏になっても誰も泳ぐ人は居なかった。むしろ遊泳禁止の処だった。
![]() 今でも白浜小の生徒達は泳いではいけないことになっている。小学生は長田浜で泳ぐ。 何故なら外洋の潮の流れが作用して離岸流が発生するからである。子供は勿論のこと大人でもさからえない。そのメカニズムを私は知らないが、泳いでいると沖に向かって流される。流されきってからUターンせざるを得ない。大浜でサーフィンする若者に訊ねると「ウン、私達はカレントと言って、知らずの内に沖に居ることがある」。 だから下田のそれぞれの浜にはライフセーバーが櫓を立てて見張っている。大浜にはその櫓が3カ所はある。海開きの日に合わせて建てられる。 7~8年位前だったろうか、海開きの日にライフセーバーが7人を助けたと伊豆新聞に載ったことを記憶している。セーバーが居たからよかったようなもので、居なかったら犠牲者が出たかも知れない。 今から4~50年前の白浜っ子達の話を聞くと「俺っち等の夏のおやつはサザエよ。夏は近所の子供達皆で出掛けて、そこ等中にあるサザエを採って焼いて食べたサ」だと。 これが長田浜であった。 下田町と合併したのが昭和30年で、その昔は独立した白浜村だった。海岸沿いに北から板戸、長田、原田と3部落(区)あり、白浜大浜は原田に属している。村役場は長田にあり「この辺りは白浜銀座と云ったものヨ」と亡くなった老婆に聞いたことがある。役場を中心に郵便局、タバコと酒屋、子供相手の駄菓子と餅屋、それにパン屋等で7~8軒だったようだ(これで銀座!)。
この3部落は板戸が約180戸、長田150戸、原田300戸で別荘族を除いて今でもなんとかその世帯数を保っている。そこに私達宿泊業を営む他処者が加わった。ペンションクラスは3区合わせて3~40軒はあるだろうか。 この3部落はそれぞれ漁港を持っていて、板戸港、長田港、そして原田の板見港である。今残っているのは板戸と板見港で長田港は板戸と合併した。 ![]() 実は長田にある白浜中央海水浴場は長田区の元漁港だったのだ。海に向かって突き出した右側の岩は自然石で、神武根(かぶね)と地元では称している。白浜神社の神が伊豆七島のどこからかやって来て、この岩礁で上陸したと伝えられている。この岩を利用して左側と沖合に石を埋め立て港とした。神武根と沖の石積みとの間に船の通れる程の通路を造り、帰って来た船は砂浜に揚げた。 一丁櫓の手漕ぎ舟だっただろうから海が荒れるとすぐに帰港する。しかし通路は狭く作ってあるので、一歩間違うと入り口で転覆したそうだ。80過ぎの老人から聞いたが「俺の子供の頃たまたま海にいてひっくり返ったのを見たサ」。心配そうな顔をしたのだろうけど、人間が無事なのを知るとホッとすると同時に内心では囃し立てたのではないか。 合併移転したのは昭和30年代だろう。その頃国道化整備が進むと共に、国土省も港湾整備に力を入れだしただろう。 こうして長田浜(港)は海水浴場となって行くのだが、この浜の特徴は海の中に岩礁が多くある。岩礁は凸凹があるから、魚、蛸が住み付くし、少し深い所ではあわび、さざえ、伊勢海老も居る。 そして海草も根付く。砂だけの海では青一色であるが、中央海岸は砂地の青色に濃い青色が点々と続く。そして海草は海の浄化をするから透明度も高い。 今から10年位前だろうか環境省認定の「日本の名水浴場100選」に選ばれているし、5年前の日経新聞の海の識者のアンケートでは全国で2位だった。1位は長崎五島列島の福江島にある浜だが、僅差だった。言い換えれば本島内では1位である。 私達一家が東京を離れここに住みついたご縁を本島に有難く思っている。 子供達が小学生の頃よく言ったのだが「おトーさん、ここを離れないでネ、私達の故郷なのよ」 下田白浜 サニーステップ 高村 平成20年7月4日。
私は他処者である。たまたま白浜に住み付いて宿泊業を営むことになったのだが、白浜を知るにつけ現状について心が痛む。
昭和30年、富士箱根国立公園に伊豆が加わり、富士箱根伊豆国立公園となった(それ迄は伊豆国定公園)。55年前のことだが、当時の写真を見たことがある。国道135号の原型が出来た頃で、両側に松が覆い繁いて、正に「白砂青松」そのもの。 その松が今では一本もない。建築の邪魔だとか、海がもっと良く見えるようにとかで、地元の人達が切ってしまったらしい。 松林は防風、防砂の役を果たしていたが、今では沖合いからの暴風によって砂が吹き上げられ、国道上は勿論のこと、山に向かって飛び去る。 もっとも、冬になると半島は西風が吹き荒れるので、山に散った砂が舞い戻ることはあった。自然の循環なのだが、そこに人間の手が加わると自然は壊れる。 地元では白浜を「大浜」と称しているが、この大浜が徐々に小浜化してきている。 ![]() この写真は6月初旬に撮ったのだが、ライフセービング大会が行われる為、海側の砂を取り寄せ国道と同じ高さで平らにしたもの。 傾らかな砂浜ではなくなった。どこまで元に戻すのやら。 下田白浜 サニーステップ 追 - 本来国立公園の中では形状を変えてはならないと思うのだが。 ![]() 60過ぎの人達は皆言うのである。「俺の子供の頃はもっとサラサラしていて白く、浜は沖まで巾も広かった」と。今から50年前である。 まずはその白さ。「夏は眩しくて薄目で歩いたものヨ」。白さに加えてキラキラと輝く粒子であったそうだ。そしてその砂は両手で掬うと指の間からサーと落ちたそうだ。 聞くところによると、半島から40km程離れた新島付近を流れる黒潮が、海底にある溶岩の溶岩の白灰岩群を少しづつ削り、相模湾の手前でUターンして半島沿いに南に下り、白浜で堆積するらしい。 その間に粒の大きいものは潮から落下し、小さな砂だけが打ち上げられる。 キラキラするのは、その中に水晶の粉末が入っているのかも知れない。 この白浜が「茶浜」になりかけ、サラサラはモタモタになってきている。 この50年、夏季だけで30~40万人から多いときは70万人の観光客がいらしている。 私はつくづく思うのだが、研究機関が是非共土砂分析をして何が原因なのか追究してもらいたいと考えている。 今年から熱海市は浜での喫煙を禁止するそうな。ひと頃私は一人で浜でのゴミ拾いをしていたのだが、ペットボトルのキャップの多さに魂消て、それ以来多勢に無勢とあきらめてしまった。 次は浜の巾。 < 前のページ次のページ >
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